劇場版魔法少女まどかマギカ新編 叛逆の物語を1分ごとに区切ってみた 後編
ネタバレしかしていません。
2011年にテレビ版が公開されてから有名人や一般層も巻き込んだヒットを飛ばした魔法少女まどか☆マギカの続編である「新編叛逆の物語」個人的にも大好きな本作を今回は取り扱います。
そもそも叛逆の物語の前提は?
この映画はテレビ版、または劇場版「魔法少女まどか☆マギカ」の続編であり、前の話が分かっていないとなかなか分かりづらい内容になっています。
しかも前作の物語も分かるような分からないような感じなので一旦僕の解釈込みで整理をしてみたいと思います。
・まどかってどんな神なの
テレビ版ではまどかは神的な存在になり世界の悲劇を自分を犠牲にして救うという選択をして終わりました。
ではまどかはどんな神なのでしょう。
まどかは世界を作っていないし、人間も作っていない、この時点でまず一神教の神ではない。
じゃあまど神様は何をするのか、
まど神様のやることは呪いの溜まった魔法少女を救う事です。
そしてこの事をほむらは新劇場版の冒頭のナレーションで絶望の因果からの解脱、と呼んでいます。
じゃあ絶望の因果からの解脱ってなんじゃらほいという話ですが。
参考
第三回 現代仏教塾2 「初期仏教の輪廻思想」解脱とは何か?
早い話、生まれ変わりの輪廻から抜け出て二度と生まれ変わらない事が解脱。という事になります。
僕は生まれ変わりと聞けば80年代ファンタジーアニメや漫画で多用された生まれ変わったら選ばれし者でした!や実は選ばれし者の生まれ変わりでした!
現世ではヘボいけど生まれ変わったらすごい奴なんスよ!
現世ではヘボだけど実は生まれながらにしてすごい奴だったんスよ!
などフィクション特有の都合のいい物としてのイメージがあるのです。
しかし仏教では生まれ変わる事自体、苦しみに満ちている世界が現世であり、そこにわざわざ生まれ変わるというのはあまりポジティブではありません。
その現世に永遠に舞い落ちる、魔法少女から魔女への変化を繰り返す。
その理から抜け出てる事がほむらの言う所の「絶望の因果からの解脱」だと思われます。
やたら円のイメージが多用される事からも輪廻を思わせる。
つまりまど神様はソウルジェムの濁りが苦しみのサイクルが頂点に達した頃合いにやってきてその円から解脱させてくれる神。
という事になります。
これに近いと個人的に思う神が阿弥陀如来や地蔵菩薩です。
阿弥陀如来は死んだ後、縁があれば誰でも助けてくれる神様で、地蔵菩薩は簡単に言えば空間を行き来出来る能力があるため賽の河原の子供を救ってくれます。
ここで注目したいのが「賽の河原」という地獄です。
賽の河原は簡単に言えば親より早く死んでしまった子供は儒教が混ざった後の仏教では罪であるとみなされます。
そこで石を永遠に積み、鬼に崩され、それを繰り返し続けるという罰を受けています。
つまりは永遠に同じ事を繰り返す地獄です。
賽の河原
これはTV版ほむらの延々に戦い続ける実情や新劇場版のほむらの望んだまどかや仲間と一緒にナイトメアと戦い続ける世界に繋がり、その地獄から救いに来てくれるのがまどかとなります。
絶望の因果から解脱させてくれるまど神様
更に言えばあのラストはほむらがまどかの救済を拒否し、散々まどかやさやかから「一人になるな」と忠告されていたのに一人に戦う道を選んでしまうあたり、無限地獄がほむらの日常や意義になってしまいその戦いの日々自体が、苦しんでいるんだ戦っているんだという実感が愛であると誤認して修羅道に落ちてしまったように僕には見えます。
・悪魔ほむらの何が悪なのか
公開当時僕はほむらが悪魔を自称した時、キリスト的な神の愛を独占せしめ、人間に嫉妬して悪に誘惑する悪だと思っていました。
最近キリスト教的悪魔の「悪としての悪」として働くので有名なのがダークナイトのジョーカーです。
しかし、よくよく見てみると冒頭のナレーションでまどかの救いを輪廻からの解脱と呼んでいたり、そもそもまどかが犠牲になる事を阻止するべきだったと決心する場面からその望みもまどかが人間の時に(解脱前、つまり業がまだあった時に)望んだであろうと
「ほむらが考える」まどかの幸せの成就でその為にまどかの一部を独占して近くに置いて置こうしたりとキリスト教的な悪魔とは何か違いがある様に感じました。
しかも、ほむらは悪魔化した後、わざわざキュウべぇを捕まえ魔法少女のシステムを残しています。
これは魔法少女が世界の負の部分である魔獣を浄化するのに必要だったからという面もありますが、まどかの決死の覚悟の結果生まれた円環の理が魔法少女がいなくなってしまうと救う相手もいなくなってしまうので無為になってしまうのを防ぐ為ではないでしょうか。
その結果まどかは一部は人間として家族と暮らし、一部は神として魔法少女を救うというまどかの幸せの両立を可能にしたのだと思われます。
キリスト教の悪魔は神に幸せになって欲しいとは思わないのでぼむらは仏教の悪の概念に近いのではないかと思います。
原始仏教での悪は僕らが考える「ある法則に則っているか?社会道徳に則っているか?」などの悪概念とは結構ズレていて端的に言えば悟りを開く事を阻む行為が悪だそうであります。
参考
評論家、宮崎哲弥氏が仏教について語っている「つぎはぎ仏教入門」
以上の点から、
悪魔化以後、必死に神化を止めるほむらはまどかを助けたいと思う気持ちはあっても仏教では悟りを開く事(仏になってしまう事)を阻むほむらは悪になってしまう。
ほむらはそういう意味での悪でありキリスト教の悪魔の定義よりも仏教における悪魔に近いのではないでしょうか。
・キュウべぇはなんだったのか。
キョウべぇの正体はインキュベーター、宇宙がエネルギー不足になってしまう事を危惧して少女を犠牲にしてエネルギーを集める。という事しています。
大の為に小を平気で犠牲にする存在でもあります。
僕がまどマギをまだ観てなかった頃、まどマギにハマった友達がキュウべぇがいかにクズであるかを力説していてその例えが「キュウべぇは女の子をソープに沈めるクズ」と例えていてえ面白かったので、それを元に一体キュウべぇとはなんだったのかを考えてみます。
見滝原の帝王〜宇宙ベンチャー起業の栄光と挫折〜
キュウべぇは女の子をアイドル(魔法少女)にしてお金(宇宙エネルギー)を稼ぐベンチャー宇宙芸能プロダクション社長。
しかしそのやり口は最終的にアイドルをソープに沈めて(魔女化)して莫大な利益を取るという悪徳なものだった。
男の為にソープに沈んだアイドルの例
しかし、宇宙的人気アイドルになれるポテンシャルと影響力を持つアイドル(鹿目まどか)が内情を暴露。
それによってまどかは業界から干されてしまうが、
その働きによって法律が改正。(円環の理による救済システム)
おんどりゃああああ!!!こんなの絶対おかしいんじゃあああああ!!!!
み、見滝原の女神が吠えたあああああ!!!!
こうして不幸なアイドルがソープに沈められる事はなくなった。
(TV版、前劇場版)
アイドルをソープに沈める事出来なくなりキュウべぇの利益が大幅ダウン。
面白くないキュウべぇはアイドル(ほむら)を利用して法律を研究して抜け道を作ろうとする。
(新劇場版のほむらの内なる世界)
しかし、利用していたほむらがまさかの暴走。
法律の一部を改正
(2回目の宇宙の書き換え)
それによってキュウべぇは思い通りにならないアイドル業界自体がハイリスクローリターンである事を悟り業界自体から去ることを決意。
しかし、2度目の法律改正の為、業界から抜け出すことも出来なくなってしまっていた。
おんどりゃああああ!!!ワシの愛は希望より熱く絶望より深いんじゃあああああ!!!!
み、見滝原の悪魔が吠えたあああああ!!!!!!
こうしてキュウべぇは儲けも少なく、大変な仕事を任される様になり、逃げることも出来ずボロボロになってしまうのだった。
(ED後のボロボロキュウべぇ)
\トホホ〜もう魔法少女はこりごりだ〜/
こうしてみると難解なお話として語られますがポピュラーな悪玉が最後酷い目に遭う因果応報の要素も入っている、勧善懲悪な部分もあったりします。
勧善懲悪的な娯楽映画の体を入れ込むあたり流石の脚本虚淵玄氏だとは思いますがここまでくると悪とは何か?の話になってしまっているのが面白いです。
虚淵氏にとっての悪とは他者を利用して利益を極限まで最大化、効率化する事が懲悪すべき悪なのでしょう。
・やっぱりほむらは悪なのか
ほむらが悪魔となる時、「この時をずっと待っていた」と言ってまどかを取り込みそこからの演出や言動はさも悪的です。
円環側のなぎさからも救いの手を不意にする行為するほむらのソウルジェムを
「呪いよりもおぞましい色に!」
とかボロクソに言われてしまいます。
可愛い顔してボロクソ言います。
しかし、ほむらが実際に取った行動を抜き取ってみるとまどかがキュウべぇに現象になってしまったまどかが、観測され研究されれば、いずれ解明され操られるのと分かってしまった後の行動なので、まどか側に立ってさやか同様円環の使者として戦うよりも、第三勢力に立って定期的にルールを掻き乱して限りなく観測され辛くするという手は決して悪手ではないし悪でもないと思います。
過剰に悪ぶって悪魔を自称してみたり、使い魔にトマトをぶつけさせてみたりと内心で自分を責めている感じはな〜んか微妙に踏ん切りがつかない辺り個人的には結構好感が持てますが、
永久にひとりぼっちになる事を覚悟した行動は作り手も悪と設定してはいないでしょう。
例えるならば、泣きながら制止する妻を振り切り張り倒して妻を守るために命を捨ててカチコミをかける極道の親分と同じで意外に漢気溢れる行動に僕は見えます。
妻の願いを聞かず振り切ってカチコミかける刃牙の花山薫の父
漢には間違っていると分かっていてもやらなきゃならない時がある。
・叛逆の物語とまどか☆マギカの世界とは
ほむらは後半、意識的には世界の為まどかの為テレビ版のまどかが勇気を振り絞り自分の存在を消してまで他人の為に神になった様にほむらもまた世界の為に消えようとした。
しかし、まどかに幸せになってほしいという真の想いは消える直前に噴出し、結果まどか本人も望んでいるか分からない人間としてのまどかの幸せを一方的に与えてそれを「愛」と評するエゴ側の位置に立つことによって神と悪魔の対比となったわけです。
個人的には虚淵玄さんの作品には個人的に少し成長して、大人になってみたらいままで予想していたものと全く違う世界がありそれに困惑するという展開が共通してあり、そこが一種の作家性になっていると思っています。
(まどかマギカにおける少女→魔法少女→魔女だったり、仮面ライダー鎧武においての青年→仮面ライダー→オーバーロードだったり、ガルガンティアにおける人類→ヒディアーズだったり)
そして今回魔法少女まどか☆マギカの世界である特徴は感情的な本音を隠していたり、心の内にもっていたりすると魔女化したり魔獣化する世界で、逆に感情的な本音を表に出すと別の形で昇華する特性があります。
マミさんは本当の友達が欲しいという願いがかなった瞬間死に、
京子も他人の為に魔法を使いたいという願いが叶った瞬間さやかと共に消え、
まどかも全ての魔法少女を救いたいと願い、概念と化して消え、
ほむらもまどかの人間としての幸せを願って悪魔と化しました。
内面の物をため込むといい事ないし、かといってすべて出し切ってしまうと現状の今の自分ではいられない。
そういう構造をもっている様にみえます。
今回の劇場版で物語で一番報いを受けるのは人の感情を利益を追求して暴き、効率化して自分の利益を最大化しようとするキュウべぇでした。
そして、まどかの為と本当の心を隠して悪魔になり、ひとりぼっちになってしまったほむら。
EDではまどかとほむら二人手を取り合って走ってゆきます。
続編の話もあったりなかったりするみたいですが、あると信じて待ちたいですね。
最後に個人的に感じた一番の萌えポイント。
改変された世界で一瞬登場のマミさん。
やっぱり一人で登校している点と、極度の内股がガニ股っぽい点がかわいい。