今だからこそ新海誠初監督作品「ほしのこえ」を振り返りたい「ウラシマ効果」とか「セカイ系」とか「エロゲからの影響」とか
「ほしのこえ」構成
ミカコのノモローグ「セカイって言葉がある」から宇宙に1人浮かぶミカコ
0~約2分(約2分)
ミカコとノボルの青春、ミカコ国連宇宙軍に選ばれたことを告白
約2分~約4分30秒(約2分30秒)
ミカコ火星で演習、引き裂かれた2人はメールでやりとりをする
約4分30秒~約9分(約4分30秒)
ミカコ、木星でタルシアンと接触、タルシアンがら逃れる為に1光年ハイパードライブ
2人の距離が更に遠くなる
約9分~約13分(約4分)
ミカコを待つのをやめたノボル、1年ぶりのみかこからのメール
みかこを待つことを決めるノボル
約13分~約15分30秒(約2分30秒)
ミカコ、外宇宙であるシリウス惑星アガルタへ、タルシアンとの接触タルシアンからのメッセージを受け取る
約15分30秒~約19分30秒(約4分)
待ち続けたノボルの元にミカコからのメールが届く
一方タルシアンと戦うミカコ、アガルタでのタルシアンとの戦いに勝利する。
「私はここにいるよ」
約19分30秒~約24分(約4分30秒)
構成としてノボルとミカコの描写を交互に見せ、ここぞという見せ場(タルシアンとアガルタで遭遇、やタルシアンとの終盤の決戦など)に5分ほど使うような構成になっています。
ほしのこえはつまりどういう話なのか?
ほしのこえで流れている大まかな主軸の話は2つ
・物理的な時間と距離の間に引き裂かれる男女の恋愛の切なさとそれを待ち、また追いかけるノボル
・地球外生命体の干渉を受け成長する人類と思春期の少女
外宇宙の生命体が外側の世界の存在として描かれ、思春期に外の社会と触れ合って成長する。という物語構造と
SFでよくある人類の進化を促す存在を自分たちからすると外側の世界にいる他者と接触する事で人類自体が成長するという物語構造を重ねています。
だから成長した大人のミカコの姿のタルシアンが
「大人になるには痛みも必要だけど でもあなたたちならずっとずっともっと先まできっと行ける ね だからついてきて託したいのよあなたたちに」
とミカコに語りかける訳ですね。
新海誠監督は狭い日常描写から広大な風景や規模大きい話へ飛ばす事(宇宙レベルの規模の拡張、秒速5センチメートルのシャトル打ち上げなど)でお話のフックを作る事を得意としていますので「ほしのこえ」も早々にミカコが宇宙で1人という画を見せてのちに続く特徴を垣間見せています。
新海誠初監督作品だけあって垢抜けない感じは。正直ある。
正直「ほしのこえ」初の監督作品で、更に個人で制作したという経緯もあり、垢抜けない感じはあります。
・キャラクターを追い詰めることにひよってる、ミカコもノボルもお互いがすんなりと少なくとも8年も待ちづづけるのにためらいがないためあまり心情的に追い詰められていない
・設定をセリフで丸々説明(序盤からに中盤にかけての国連宇宙軍やタルシアンの説明台詞)
・登場人物が極端に少ない(セカイっていう言葉があるというものの、どういうセカイなのかが2人以外登場人物がいないので分からない、2人の人間関係が共依存的に狭いのかそれとも普通の10代程度には広いのかも分からない)
・2人の関係性がちょっと分からない(ノボルのセリフから「中学時代結構仲良かった」と言っているのにミカコ側のメールの文面が「みかこだよ♥」とミカコ側からメールを送っているような描写が多い更にノボルがミカコにレスを返してる描写がないので双方に温度差があるように見える)
・展開が急、登場人物動機が謎(何故ミカコは他の乗組員がいるにもかかわらずノボルにのみ固執するのか?何故ノボルは一旦高校で彼女を作ったのにメール一通で8年童貞を貫こうと決心したのか?)
などなど作話や映像で技術的、経験的にここをこうやりたかった。でも。。。という所が所々あるのが事実だと思います。
中でもウラシマ効果問題をちょっと取り上げてみます。
「ほしのこえ」ウラシマ効果問題
「ほしのこえ」はミカコのメールに「ねぇ私は宇宙と地上に引き裂かれる恋人みたいだね」とあるようにこの話は2人が宇宙と地上で好きあっているのに引き裂かれて切ない。というのが重要になります。
そので問題になるのがウラシマ効果どうこうがあるのか?ないのか?という問題です。
ウラシマ効果とは?
ミカコが移動によって光速に近づくと時間に追いついて置いてかれるノボルは先に年取っちゃうけどミカコは年取らないよという現象
個人的には僕はSFにうるさい人間ではないので作話的に面白かったり、おいしくなればどっちでもいいのですが、問題はどっちの解釈をするかで内容が若干変わってしまう所にあります。
仮にウラシマ効果をアリ(ミカコのセリフ「またノボルくんとの時間が1年ずれちゃう!」や16歳のミカコ24歳のノボルと対比的に見せている演出から)にしたとしたらミカコが何歳でも経験が合わなくても待ち続けるノボルという構図が浮かび上がり、それでも信じてメールを送り続けるミカコという物語になります。
ウラシマ効果アリだと時間が関わってくるので戻ってこないと分かっていてもいつまでも待ち続ける。待った結果、歳が離れてもう恋愛が出来なくなったとしても、どちらかが死んでしまったとしても待って追いかける事に意味がある。という物語になります。
仮にウラシマ効果をナシ(ミカコ自体は光速で移動しているわけではなくハイパードライブ。つまりワープしているので2人の年齢は変わらない、つまり2人とも16歳同士24歳同士。単純にコミュニケーションに時間がかかる)
にした場合、時間と距離を待ち続ける男という話の構造が消え、例えるならば沖縄と北海道の遠距離の距離がさらに長い壮大な遠距離恋愛の物語になり単純に距離の問題になります。
そうなるとコミュニケーションの時間が非常に長いと同じように心の距離も実は遠い。でも届く時間がかかっても送り続ける。という意味合いになるのでコミュニケーションが取れない切なさの拠り所が時間か距離かなのかで違うようになってきます。
どっちにしろ作品の根幹部分、ここの設定が変わると意味合いが変わっちゃう所が不明確でどっちを取るかによって作品に酔える部分が少し変わるのでどちらにしても単純に分かりずらくなっているのは残念です。
お話を分かりづらくして高級感を持たせようというのは正直良い手ではありません。
が色々言っていますが工夫していないわけではないのです(ここ重要)
その様子が良く分かるのが予告編です。
編集や構成、もちろん映像的にも試行錯誤の様子が見えます。
1番最初の予告はミサイルの描写やCGがまだ未完成だったり、文字と静止画で情報を伝える部分が多いので編集もゆったりしていてやや長いように感じます。
3番目の予告になると前半はゆっくりとプロローグを見せて後半に設定の説明やロボットの描写を見せて大分見やすく面白そうになっています。
「ほしのこえ」は新海誠監督がほぼすべての作業を1人でやったからこそ評価されまた歴史に残った作品になったのですが、様々な修正のあとを見ると「ほしのこえ」は他からアドバイスをもらいながら修正していったのではないかと思えます、特に構成に関してはもっと本編はミカコが
狭い教室にいて「私はどこにいるんだっけ?」「あっそっか」と宇宙に広がるという映像的な引きをさっさとやってしまっているところなど予告編を見ると冒頭のミカコ語りは最初はもっと長かったがテンポが悪くなるからカットしたのでは?と思えてきます。
予告編は「ほしのこえ」予告編は新海誠監督の初監督作品での試行錯誤の様子が垣間見えるので新海誠監督ファンにオススメです。(オリジナル声優版の新海誠監督と篠原美香氏の演技がドンドン上手くなってゆく様子もまたイイです)
ド真ん中の世界系
この作品が新海誠個人で作って業界をビビらせたと別に、評価される理由はアニメや漫画などに多大な影響を与えた「セカイ系」の流れを作った。と僕は思っています。
なんといっても冒頭一発目セリフが「セカイって言葉がある…」から始まります。
※世界系とはウィキ参考
「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』と繋がってしまうような想像力」
要は思春期に自我が肥大化した結果、自分=世界、自分=社会だと信じ切ってしまう、またそれが回ってしまう物語です。
自分1人の意見で「セカイが」とか言ってしまうことですね。
良く出されるセカイ系ではない物語の例としては
テレビ版「機動戦士ガンダム」があります。
機動戦士ガンダムの主人公アムロ君はガンダムに乗って攻めてくるジオン(自分以外の価値観を持つ人間)と戦いますが、
そのうちアムロくんが調子に乗ってガンダムで好き勝手やろうとするとガンダムから降ろされ他のパイロットが乗る展開があったり、ガンダムに乗りたくはないけれども乗りたい乗りたくないに関わらずジオンは攻めてくるわけですから乗らなければならずに頑張りすぎてアムロ君は白目になったりします。
社会から与えられた重圧が辛すぎて白目になるアムロ君
つまり主人公の意思とは関係なしに他者からの評価や意図、事情によりガンダムに乗らざるを得ない。
しかもアムロがガンダムに乗ったからといって世界平和になるとか、逆に連邦軍が負けるとかではありません。
あくまで社会のシステムの歯車の1つとしてアムロ君がいる訳です。
そしてセカイ系に大きな影響を与えたとよく言われる例として「新世紀エヴァンゲリオン」という作品があります。
新世紀エヴァンゲリオンになるとエヴァ初号機は主人公シンジ君が乗せられて謎の敵使徒と戦いますがエヴァ初号機はシンジ君しか乗れないので調子こいて初号機から降ろされたりはしますが、他の人に席を取られる(ポジションを奪われる)ことはありません。
外側から使徒という謎の敵はやっては来ますが、シンジ君はエヴァに乗りたくないといってホントに乗らずに大変な事になる。というフェーズがあります。
しかもシンジ君が使徒に負けたらサードインパクトが起きるので人類がほぼ死んでしまいます。
乗る理由も社会的な責任より友達を守りたいとか友達が僕を裏切ったとかより個人的な内容になります。
友達が裏切ったのが辛すぎて友達を握りつぶすシンジ君
自分の勝敗に人類の命運がかかっているのにエヴァに乗りたくないから乗らないというある種個人の感情が重要視されるような構造に変化しています。
その辺は本が出るくらい長くなるので詳しい事は言及しませんが、自意識のあまり社会の歯車になることが拒否されたり軽視されます。
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「ほしのこえ」は宇宙という広大だけど登場人物2人という驚きの狭さをもつセカイは純真無垢なミカコに託されるのです。
「大人になるには痛みも必要だけど でもあなたたちならずっとずっともっと先まできっと行ける ね だからついてきて託したいのよ あなたたちに」
というのを受けなければならない。
それに対してミカコは「分かんないよ!!」とアンサーするのが山場として配置されています。
外側から「託す」とか言われても分からないミカコちゃん
こうした自意識を巡るテーマを徐々にグレードアップを見せているのもアニメの面白い所です。
流石2016年の最近は消費されつくしたのかこういう作品は流行らなくなっている傾向がありますね。
まとめとしてエロゲからの価値観の輸入
今回ミニッツライナー会をやる前、僕はこの新海誠の価値観はある種、小説だったり文学的な文脈から来ているのではと感じていたのですが、参加者の方にエロゲーの制作に携わった方から元々新海誠監督は「ほしのこえ」の制作同時期または以後にエロゲーのOPムービーなどでその才能が話題になっていたそうです。
そう考えるとこの頃のエロゲーはいわゆる「純愛モノ」が流行っていていて、文学的ないし情緒的な泣かせ、切なさ、主人公の客観性などをエロゲに取り入れていった文脈があります。
その意見を聴いているうちに、映像だけでなくお話的にも「ほしのこえ」はかなりそこからの影響が伺えるように思いました。
例えば理由(動機)はないけど清純的に男を愛し、また変化を拒否するヒロイン像(寂しくなっても何故かノボルだけを愛し、ノボルだけにメールを送り続けるミカコ)だったり、
物語の盛り上げだったら本当にミカコは広い宇宙で徹底的に1人ぼっちになるフェーズを負ったうえでノボルがミカコを待ち始める様な主人公の追い詰めをあえてスルーしていたり、
愛に対する動機が前提として備わっているので「なぜノボルがたったメール一通で8年も童貞を守るのか」の理由なども映画的には描き込み不足に感じる所ですが、
そもそも前提が絶対に男女がお互いを裏切ることがない純愛ノベルゲーム前提としてと考えるとシナリオとしては無くて当たり前。むしろ無いから気持ちイイんですよね。
文化は他文化が入ってきて混ざり合った時にスパークするとよく聞きますが、アニメや漫画の作話はこれ以後、「セカイ系」的な作話が大流行し、またそれを評価、受け入れてくれる客層が出来、その後セカイ系を引き継ぎブラッシュアップした「涼宮ハルヒの憂鬱」の大流行に繋がります。
ミニッツライナー会をやってみんなで語り合った結果、そんな新海誠監督がド直球セカイ系の土壌を「ほしのこえ」で作り、「君の名は。」で初の制作委員会方式で王道エンタメに挑戦して見事それを成功させたとを見ると新海誠監督すごいなというか、みんなで語り合ったからこそ感慨深い気持ちになりました。
その瞬間、セカイ系とか、純愛モノとか、窓際系とか、新海誠というものが何処にあるのか分かった気がした。
それから次の瞬間、たまらなく悲しくなった。
僕たちはこの先もずっと同じセカイにいることは出来ないとはっきりと分かった。
僕たちの前には未だ巨大すぎるエンターテイメントが、茫漠とした作家性が、どうしようもなく横たわっていた。
でも、僕をとらえたその不安は、やがて緩やかに溶けていき、あとには、君の名は。の視聴とその成功の嬉しさだけが残っていた。